筑波山は海抜877mにすぎませんが、関東平野の中央にひとりそびえたっているため、どの方角からも仰ぐことが出来、昔から「西に富士 東に筑波」と並びたたえられて来た名山で、紫峰などとも呼ばれて来ました。 また男体・女体の二峰をもつ美しい山容は「万葉集」はじめ、多くの詩歌に歌われるとともに、史跡に富む山でもあります。
筑波山の初雪(沼田)
筑波山神社
山の中腹(標高約270mあたり)にあり、筑波男神(いざなぎのみこと)、筑波女神(いざなみのみこと)の二神をまつっています。
平安時代桓武天皇治世の8世紀末に徳一大師(藤原仲麻呂の子)が 知足院中禅寺を開き、これがのちに筑波両大権現と言われるようになりました。
江戸時代になって、家康、綱吉2代にわたって社領が寄進され、更に 筑波山が江戸の鬼門の方角に当たるところから徳川将軍家の祈願所と定められ、関東一の名社として広く宗敬されるようになりました。
しかし、明治初年におこった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壮麗を誇った堂塔伽藍(どうとうがらん)は破壊され1875(明治8)年に名も筑波山神社と改められ現在に至っています。
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明治29年 彰仁親皇書 神社の本殿正面に掲額 |
筑波の文化財
狩野探幽筆 三十六歌仙図 筑波山神社所蔵 三十四面の内 6面 板絵着色額装
サイズ 各縦47.0cm 横32.0cm(額)
各 縦43.8cm 横29.0cm (画面)
各裏面には、
御哥 地足院御門跡八宮様染筆也
絵(者) 狩野采女正書之
寛永十年癸酉林鐘(六月)二十八日
知足院法印栄増
※(注) 狩野采女正は狩野守信が、寛永15年(1638年)薙髪して探幽と号するまで用いた名前
筑波山の詩歌・民謡
●筑波山の詩歌
美しい筑波山は万葉集など数多く詠まれていますが、一番有名なのが百人一首中の「つくばねの峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」(後陽成天皇)でしょう。
俳句では子規の「赤とんぼ筑波に雲はなかりけり」嵐雪の「雪は申さずまず紫の筑波かな」などが知られています。
詩では下妻市出身の筑波根詩人と呼ばれた横瀬夜雨の「二人居てさえ筑波の山は霧がかかればさみしいもの」(お才)がなじまれてきました。
●筑波山の民謡
筑波小唄
野口雨情 作詞 藤井清水 作曲
思い掛け橋 筑波へかけて ヨイショアリャリャンセ
薄い情けも 掛けるやら それなんとしょ
サイコトンハトコ ヤンサノセ
筑波節
作詞 作曲 同上
筑波月の出 夜明けの日の出 アリャコリャサ
山は遠もや うすあかり ツク筑波が縁どころ
「かがい」について
うたがき(歌垣)ともいいます。
万葉の頃、豊作への祈りと感謝を込めて、若い男女が夜、山の頂に集い焚き火を囲んで酒を飲みながら歌ったり踊ったりしました。
はじめは信仰的な行事として、ピクニックのようなものがやがて男女の交歓の場に発展して行ったと言われています。
万葉集の中に「……をとめをとこの行き集い……かがふかがひに人妻に吾も交らむわが妻に……神の昔よりいさめぬ業ぞ……」とありますが、ある種公認の場だったようです。
その場所ははっきりしていませんが、六所の上の「夫女ケ原」あたりが有力とされています。